· 

使わない能力は失われる。これから、必要な能力とは?

 3年前、総合的な学習の時間の使われ方に疑問を持ち、ある教材と出会った。それは、どの教科に分けられるものではないものであった。しかし、最初の動画を観た際に、「これだ!」と心を動かされた。その動画の中には、近未来の生活のようすが映し出され、AIやロボットによって、いろいろなものが人間の思考を使わずに提案され、まるでAIやロボットによって人間の生活がコントロールされているようであった。しかし、AIやロボットが普及していない地域からやってきた人物は、「考える」ことをやめなかった。そして、「学ぶ」ことを続け、「もっと〇〇」「〇〇したい」という気づきに対して「学び」をやめず、「行動」に移していった。そして、人間の生活のより豊かなものにしていった。今の私たちは、魚の釣り方を知らなくても、魚を食べることができる。魚のさばき方を知らなくても、おいしい魚を食べることができる。つまり、使わない能力は失われていくのである。

 これは、社会構造が変わり、役割を分担して「社会」を形成してきた結果であると言える。また、人間の到達点のない欲によるものだと思う。ずっと昔は、あらゆることが手作業で行われていた。そのため、より質の高い知識や技能が求められてきた。そこへ、18世紀後半、産業革命がやってきた。今で手作業で行っていたことが、「機械」が行うようになり、人間は機会を操作する部品となり、機械の一部になってしまった。技術が発展するごとに、機械がバージョンアップされる。それとともに、人間にはさらに質の高い知識や技能が求められるようになってきた。大規模工場で、均一な製品を効率よく大量生産するため、機械と人間のバージョンアップは、より質の高い知識と技能によって発展してきた。一方で、古くなった知識や技能は失われてきた。「職人」と言われる人間にしかできないモノも、今や危機的な状況である。

 そして、今日、AIが人間の生活の中に登場した。AIは、あらゆるものを学習し進化を続けている。AIは、人間の存在を脅かしている。大規模工場のシステムをコントロールし、機械の一部であった人間は、その本当の存在意義を見出すことが求められている。

 このような社会に、子どもたちを送り出す学校教育はどうだろうか?一人1台のタブレット端末、微妙に途切れるWi-Fi環境、厳重すぎるほどのセキュリティー。環境は整った。評価の規準も変わった。役職柄、多くの先生方の授業を参観することが多いのだが、私が中学生の時の授業と変わった点は、ごくわずかのように見える。自分自身の授業もそうだ。教師からの質問→生徒の回答→教師の解説→生徒の反応。この矢印の向きは、変わっていない。まだ、生徒から質問されていないが、「二酸化炭素は石灰水を白くにごらせるということを知って、人生が大きく変わるのか」と質問されたらどうだろう。理科教師以外の大人で、二酸化炭素が石灰水を白くにごらせるという知識や技能は、おそらく一生の間で1度もないのではないだろう。そのため、「使わない知識や技能」は失われていくのであり、現在を生きる子どもたちに学ぶ価値を見いだせきれないのも実状であると言える。もちろん、化学の基礎を学び興味をもつことによって、さらに学びを深め、新しい素材を発見したり、新薬を開発する大人を育成することも可能だろう。しかし、子どもたち全員がそうならなければならない訳ではない。だからこそ、今からの教育で求められるのは、子どもたちが、「何をいつ、どこで、どうやって学ぶか」というものに裁量を与えるべきではないかと思う。生徒の気づき→生徒の疑問→生徒の学修→情報の共有としてはどうだろうか。すると、「〇〇は△△である」という知識や技能だけでなく、目の前に現れた疑問や課題を、協働して解決していく「能力」を身につけることができるのではないだろうか。

 これからの社会は、「予測困難な時代」と数年前から言われている。だからと言って、「わからないのだから、今のままでいいや」では通用しないし、将来不幸になるとわかっている子どもたちを社会へ送り出すことにもなる。「予測困難」と予測できているのだから、それに対応するための教育を行わなければならない。そのためには、まずは、教師が危機感をもって、学び、実践していく姿勢をもつことが重要であると考える。