以前も似たようなことを書いたことがあるような気がしますが、最近、再び感じます。
○黒板に張り出される「宿題忘れの名前」。
勉強について行けず、家で一人で頑張ろうとしても頑張れなかったら、宿題をできないのは、その子の責任ですか?教科担任の責任ですか?周囲と比べられる。がんばってもできない。そんな状況で、名前が張り出される。
「○○ちゃん、昼休みにいっしょにやろう!」というような声が普通に交わせるような教室であれば、多少は救われるのでしょうが、多くの場合、「また、あいつやん」。または、「…(無関心)」なのでは?
そんな教室環境で、張り出される自分の名前。
○「できた人は手を挙げて」は「できない人」をさらけ出すこと
「では、○○の問題ができた人は手を挙げて」「理解できた人は手を挙げて」と言われたとき、もし、自分ができてなくて、周囲の9割が手を挙げていたら…。
さらに、「おまえは、ちゃんと先生の説明を聞いていたのか?」と追い込まれる。
「先生の説明をちゃんと聞いていれば、絶対にわかるはだ」という、何の根拠もない押しつけ。
最終的には、何の支援もなく進む授業。
学校では、「合理的配慮」やら言われていますが、
規格化しようとする授業では、必ず「規格外」が出現します。
そのとき、多くの教師は「排他的措置」をとります。
授業の主役は誰なのか?
「すべての生徒」でしょ!
「いつも元気な○○くん」「笑顔が素敵な○○さん」「とっても優しい○○さん」「何事にも一生懸命な○○くん」一人一人、全員が主人公になれる授業を行えば、子どもたちは光り輝く!!
「子どものため」と思いやっていることが、本当に、「子どものため」なのか?
ただ、教師の自己満足のためではないのか?
「教育」の中心には、「子ども」がいなければ!!